あなたが生きている目的

こんにちは

 

あなたは「今なんのために生きているか」ということについて思い耽ったことはありますか?

ゴーギャンの最も有名な絵画に「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」というのがありますが、 この重厚な絵画の中に、人生の三段階の期間を表しています。我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか

 

 

 

 

 

この作品をかきあげた後に、ゴーギャンは自殺を決意していますが(結局未遂に終わりますが)、そのことを考える先には希望が見えていないように、最後は苦しみの老婆と一羽の鳥で言葉の無力さを表しているそうです。

藤村操さんという、名家に生まれとても優秀で、将来が期待されていた学生さんも、万有の真相は不可解という言葉を残して華厳の滝で自殺をしてしまいました。

優秀な人ほど、人生について、真理について思い悩む人ほど、将来を絶望視し、死を選択してしまいがちです。

昨年の日本の自殺者数は20000人以上で、交通事故死亡者数の5倍にも登っています。こうしてキーボードを叩いている間にも誰かが命を絶とうとしていると思うと残念でなりません。

「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」

もしそれがわかったなら、人生の中に少しでも希望を見いだせることが出来、今時分が生きている意味がわかったら、死を選択するのを先延ばしにすることができるかもしれません。

 

映画『ザ・シークレット』を見た人は、最後の黒板のシーンを覚えていますでしょうか?

作家のニール・ドナルド・ウォルシュさんがこう言っていました。

あなたの人生の目的や氏名を書いた黒板が空にあるわけではありません。

ですから、あなたの人生の目的はあなたが決めることなのです。あなたが自分に課したものがあなたの使命なのです。

私達は自分の人生の目的は、今最高の喜びの中にいること。幸福になること。息を吸って吐いて、食事をして、家族や一緒にいたいと思う仲間とともにいること。悩んだり苦しんだりしているすべてがあなたが幸福になることへのプロセスなんだと言っているのだと思います。

どんなに今苦しみ悶えて、健康を害し、絶望し、勝負に負けて、また自分の不甲斐なさに喘いでいたとしても。明日食べるもの、寝床や着る服が無かったとしても、それでも喜びのために明日を生きることを選択すべきだと思います。

小さな、小さなことに喜びを感じることからだと思います。

ゴーギャンも藤村操も毎日与えられている小さな喜びを見つけることができなかったのではないでしょうか?

人生は一度きりです。後に説明しますが、本当に自分の人生は一度きりなのです。

あなたはなにかの被害者かもしれません。誰かの巻き添えを食らってしまい、喜びや楽しみを捨てて苦労の道を辿らざるを得ない状況の中に生きているかもしれません。

夫や妻、舅や姑のため、病気のために毎日苦労と犠牲の日々を過ごしているのかもしれません。

でもその毎日は本当に誰かの責任によるものなのでしょうか?

あなたは日々ベストな選択をしながら今まで生きてきたのではないでしょうか?

どちらか一方を選びながら、これがベストだと思いながら会社に行き、満員電車に詰め込まれながら生きているのではないでしょうか?

でも誰かの責任にして、誰かの被害者になっている以上は、あなたはあなたの人生を生きていることにはならないのです。

他人の人生を生きるべきではなく、自分の人生は自分で生きて、自分で喜びを見つけるのです。今の現状、状況はすべて自分の責任。そう思うところから始めればいいのです。

あなたがベストを選択してきた結果が今なのですから。

なにか困ることがあるでしょうか?

人はよく人に責任をなすり付けがちですが、そうすることと、自分の責任として受け止めることとどちらが自分のためにいいでしょうか?

どちらでも間違いではないのですが、自分の責任にすることで、あなたは自分の人生を手に入れることができるとしたらどうでしょうか?

自分の人生を自分でコントロールすることで初めて喜びを自分で手に入れることができるとしたらどう感じますか?

あなたはどちらを選択したいでしょうか?

 

そこでもう別の視点から深く掘り下げてみましょう。

では、なぜ喜びのために生きているのでしょうか?

なぜあなた自身の喜びが人生の目的になりえるのでしょうか?

実はこれだけでは、人間が存在している目的の一つの側面しか見ていないことになってしまいます。

自分の喜びのためだけに人は生きているというわけではなく、それでは本当の意味で人間目的を見出していることにはならないのです。

私達はもう一つ重要な側面がすっぽり抜け落ちてしまっていることを理解しないといけません。

『神国論』を著した聖アウグスティヌスは神に向けてこのように告白しています。

あなたは私達を、ご自身に向けてお造りになりました。ですから私達の心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです。

アウグスティヌスは神の視点から人間を見つめるという偉大な功績を遺した人物でした。

私達は歴史上、自分の存在している目的について思い煩ってきました。

それは例えるなら、鉛筆が自分はなんのために生きているのかと自問自答しているようなものです。

鉛筆が存在している目的はなんでしょうか?

鉛筆自体が本当にそれを見出すことができるでしょうか?

目的というものは本来、それを作った人によって与えられているものであって、それ自体からは生じることはできないのです。

鉛筆の存在目的は人間が書くことで付与され、価値が発揮されるものであって、鉛筆自身がそれを見出すことはできないのです。

あなたもそうです。あなたが存在している目的を知る前に、あなたが創造された目的の方が遥かに重要だということなのです。

存在者の目的を論ずる前に、創造者の目的を知らなければならないのです。

では、神が人間を創造したとして、その目的とは一体何でしょうか?

それも実はあなたと同じように「喜び」なのです!

神は自分の喜びのために人間を創造しました。

あなたを見て喜びたかったのです!

母親が赤ちゃんを欲しがるのと同じように、あなたを抱きかかえて、人生をともに歩んで、ともに成功して、あなたの表情、心と体、創作物、そしてあなたを通して世界が広がっていき、価値が付け加えられることを喜びたかったのです!あなたが誰かを愛することで、神自身も愛を表したかったのです。

神が何もない空間にたった一人存在することになんの意味があるのでしょうか?

なんの意味もありません。

神は自分を神と認めてもらう存在がいない限り、どれだけ偉大だったとしても、存在していないのと同じだったのです。

なんでもできて、なんでも知っていても、誰に披露し、なんの得があるのでしょうか?

声楽家が無人島でたった1人声をからして美声を披露したとして、いったいなんの意味があるのでしょうか?

そして、神には決定的にできないことがありました。

それは「喜ぶ」ことでした。

神の中には私達の心と同じように、心を備えています。

その心は愛したくてしかたない、グツグツ煮えたぎる溶鉱炉のようなものでした。愛を通して返ってくる喜びが最も大きいという概念を神は持っていましたが、致命的にそれができませんでした。

なぜできないのでしょうか?

愛を通して喜ぶためにはどうしても必要な2つのものがあります。

それは主体と対象です。

主体である神ご自身だけでは愛は成立することができないのです。

したがって神ご自身だけでは喜びを見出すことは不可能だったのです。

神はどうしても愛する対象が欲しかった、絶対的に必要でした。

そのことを悟った神は、永遠に愛する対象として、神の子女としての人間を創造するプランを立て始めたのです。

 

以上のことから導き出せるあなたが生きている目的の結論は、

神を喜ばせること。

なのです。

私達は本性的に親を喜ばせたいという気持ちを持っています。

親孝行したいという本性がありますよね。

それは家庭環境や親子関係、これまでの出来事によって左右されてしまいますが、本質的には誰でも持っている人間の本性です。

そして神を喜ばせることで私達の心が本当にしあわせを感じるように、私達は創られているのです。

 

神が喜ぶこと、つまり親が喜ぶことで一番簡単なことはなんでしょうか?

それはあなたが喜ぶことです。

そして喜びを通して感謝することです。

 

あなたの喜びはどんなことでしょうか?

どんな人生だったとしても、どんな環境だったとしても、

どんなにあなたを苦しめる人がそばにいたとしても、

いつでもどこでもあなたは喜びを見つけることができます。

探してみてください。

希望のしっぽが垂れ下がっているかもしれません。

あなたはそれを必ず見つけることができます。